読書:『美を求める心』(小林秀雄作)

小林秀雄氏の『美を求める心』の一部:
 

若い人達からよく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難しくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるにはどういう勉強をしたらいいのか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。私は何も考えずにたくさん見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。

極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。まず、何を措いても見ることです。聞くことです。

 話は私事になるが、私は、ロンドンのダンヒルの店で、なんの特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をしたライターを見つけて買ってきた。書斎の机の上に置いてあるから、今までに沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける序でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もいない。成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。黙って一分間も眺めた人はない。詰らぬ話をするなどと言わないでください。(中略)

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。

 例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だとわかる。何だ、スミレの花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。スミレの花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。

美しい自然を眺め、或いは、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んともいえないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。

 美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。
 絵や音楽が解るというのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。

 知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子どもでも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかもしれません。

 実際、優れた芸術家は、大人になっても、子どもの心を失っていないものです。

 泣いていては歌はできない。悲しみの歌をつくる詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを美しい言葉の姿に整えて見せる人です。
 詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っているの人です。

美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。

 あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言いますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体つきをしているとかいう意味ではないでしょう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいというのでしょう。絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです。

 そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心は誰にでもあるのです。ただ、この能力が、私たちにとって、どんなに貴重な能力であるか、又、この能力は、養い育てようとしなければ衰弱してしまうことを、知っている人は、少ないのです。
 今日のように、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、おしべ、めしべはどんな構造をしているのか、色素は何々か、という様に、物を部分に分けて、要素に分けて行くやり方ですが、

 花の姿の美しさを感ずる時には、私たちは何時も花全体を一と目で感ずるのです。だから感ずる事など易しい事だと思い込んでしまうのです。

 一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難しい事だ。仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。そして、優しい感情を持つとは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を正しく感じる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。

廣告
本篇發表於 爱好。將永久鏈結加入書籤。

發表迴響

在下方填入你的資料或按右方圖示以社群網站登入:

WordPress.com 標誌

您的留言將使用 WordPress.com 帳號。 登出 /  變更 )

Google photo

您的留言將使用 Google 帳號。 登出 /  變更 )

Twitter picture

您的留言將使用 Twitter 帳號。 登出 /  變更 )

Facebook照片

您的留言將使用 Facebook 帳號。 登出 /  變更 )

連結到 %s